読トリン活動日誌

京大読トリンの例会活動内容を記録します。

例会 12/12

会長のほしみです。
最近めっきり寒くなってしまって、気温の低下に伴って例会に出席する会員数も減ってしまいました。
京大読トリン、越冬できるのか。

青年のための読書クラブ (新潮文庫)

青年のための読書クラブ (新潮文庫)


青年のための~なので、本の紹介本的な感じなのかと思ったらだいぶ違って、女学院の中での特異点である読書クラブが女学院の闇にどう関わっていくの的な。時代を越えて会誌で繋がる連作短篇集で、特にネタ本が分かればオマージュとしてもかなり楽しめるのでないかと。僕はシラノしか分からんかった……(ほしみ)
雰囲気がヘビトンボの季節~~っぽい(樹下)

オズの魔法使い (岩波少年文庫)

オズの魔法使い (岩波少年文庫)


オズをネタにした本を読んだ時に結構原作を忘れてたので、買って読んでみた。ら、完全に"精神病患者の体験する世界"みたいに読めてしまって面白かった。後、自分が大人になったからか、オズ大王がすごく可哀想だった……。(ほしみ)

楽園の泉 (ハヤカワ文庫SF)

楽園の泉 (ハヤカワ文庫SF)


ぼくらの大好きな軌道エレベータをどう実現するかを軸に、工学者としての心構えだったり哲学だったりを絡ませてくるのがやっぱりアーサー・C・クラークという感じで良い。印象的だったのは、ジブラルタルブリッジの例から「今は大丈夫でも絶対安全という事はないんだ」って考え方。ちょくちょく挟まれる詩っぽいのは読み飛ばしてる。(zeki)

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モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)


『モードの迷宮』は鷲田のモード論の始まりを飾る論文集で、ファッション誌だかに連載されていたらしい。
ロラン・バルトはモードを、「みずからせっかく豪奢に作り上げた意味を裏切ることを唯一の目的とした意味体型」とか定義しとるんやけど、鷲田のモード論はここから始まっているといっていい。

わたしが<わたし>になるために、人は自分自身をたえず検閲する。<わたし>はしかし決定不可能で実体はなく、モードの記号によって一時的に形象を与えられるに過ぎない。
コンタクトのCMに「ホントのワタシ、デビュー」とかいうキャッチコピーがあったけど、「ホントのワタシ」なんてコンタクトつけようが外そうが、とらえどころがないっちゅー話。ならば、ワタシがコンタクトを付けるのは、「ホントのワタシ」になるためではなく、コンタクト(記号)の着脱による意味の揺らぎ、その手触りを確かめることによって、抽象的な<わたし>を感じようとするからだ。多分。

まぁ、今書いたように、「流行と服とわたし」が主題の本です。『ひとはなぜ服を着るのか』のほうが読みやすいし、自分はテンション上がったような記憶があるけど、もう少しアカデミズムっぽい文体に触れたい人はこっちもお勧め。多分これが鷲田のモード論の主著。

ただ、<わたし>の問題はあくまで鷲田の問いであって、永井均の独在論に慣れている人は違和感あるかもしれん。これは鷲田の本を読んでて一番関心がある点ですね。鷲田の<わたし>は記号と意味の戯れ(服着たり脱いだりすること)で崩壊と再生産を繰り返されるらしいけど、永井の<わたし>はそんなもんじゃないでしょう。「地球最期の男 オメガマン」みたく、仮に地球にわたし一人だけになってモードなんてなくなったとき、わたしは<わたし>をどう獲得するんだろう。
永井と鷲田の差異ってどっかにまとめられてないかな。(塀)

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)


”本当の戦争の話”とは、どんな話だろうか。

たとえば「戦場は凄惨で、地獄である」とか、「戦争に英雄はいない」とか。
私たちは”戦争の真実”という言葉とセットで、しばしば上記のような教訓を提示される。そしてその教訓は間違ったものではない。
けれど、それらの教訓は”本当の戦争の話”には、絶対に含有されないものだとオブライエンは本書の中で強調する。”本当の戦争の話”には、何の教訓も訓戒も含まれない。そして、”本当の戦争”とはそういうものなのだそうだ。

本書は22の短編から構成される。短編は全て、「私(ティム)」が主人公のベトナム戦争に関連した物語だ。ただし、主人公と著者の名前は同じであっても、一連の短編はノンフィクションではない。フィクションである。著者はそう念を押している。
22の短編は基本的に「私」の従軍についての回想という形式をとっている。そこに登場するアルファ中隊のメンバーたちは、非常にリアルな人物描写を伴って活写されている。そして、リアルな描写によってその死もまた描かれていく。
メンバーの死は劇的な最期として描かれない。ほんの不注意や不幸によって、「ズドン・ばたっ」と命を絶たれる。その繰り返し。積み重ね。

作中で政治やイデオロギーについて語られることもない。アルファ中隊のメンバーは、誰もそんな話をしようとはしない。22の短編を読みきったところで、読者のベトナム戦争についての知識は微塵も増加しないだろう。そう、この本は「ベトナム戦争」について書かれているわけではないからだ。では何について? 勿論お分かりだろう。

本当にあったかどうかも分らない戦争の話を書いて、著者は何を伝えたかったのか。おそらく、それはベトナム戦争を擁護したり、批判したりする目的ではない。彼は伝えたかったのだ。ベトナムの戦場で見た湖を。水田を。山々を。太陽の光を。ぬかるむ汚泥を。人が焦げる匂いを。夜の帳を切り裂く、鮮やかな閃光弾の軌道を。
木村敏は『時間と自己』において、詩はもの(現実に観察される事象)ではなく、こと(作者が事象を観察するることで抱いた”イメージ”)を伝えるのだと言っている。「古池や/蛙飛び込む/水の音」が、実際に起きたかどうかなどどうでもいいのである。ただ、この描写を通じて、芭蕉はあるイメージを読者に伝えたいのだ。

著者は戦争の話などしようとはしていない。僕個人は表題作が最も印象深いのだが、そこで「わたし」は、「人の話を聞かない」人々が、「わたし」の従軍記を戦争の話として消費してしまう人々について語る。
22の短編は、ラブストーリーであり、ゴーストストーリーであるという。

戦争中に戦場で起きた、愛と記憶についての物語なのだと。(塀)


次回は12/18(火)です。
卒論書けるといいね!ビョビョビョ