読トリン活動日誌

京大読トリンの例会活動内容を記録します。

『うたかたの日々』のSF的叙情性について

先日の例会でボリス・ヴィアンの『うたかたの日々』を紹介し、そこで「これSFっすわ〜」と適当なことを言ったらボコボコに叩かれてしまって、まあ確かに考えの足りない部分が多かったとは思うので少し言い訳じみた補足を書いてみる。

メルヘンについて

その場でも言い直したのだがこれはSFではなくメルヘンとしたほうがカテゴリーとしてはしっくりくるだろう。パリの若者の間の恋愛を描いたものなので、僕が特に意味があると思った本小説の要素を並び立てれば青春群像劇的メルヘン風恋愛小説ということになる。
メルヘンとは何だろうか。別役実は『三角形のメルヘン』の中で次のように述べている。

つまり私は、メルヘンというのは「架空の論理」であると考えている。もちろん、重要なのは「架空の」という点ではなくて「論理」という点だ。メルヘンを「非論理的」事情、もしくは空間、とする考え方は、その意味で、まったく私の意にそわない。

メルヘンというものの孤立感というのは、その「現実にたいして何の根拠も持っていない」という点に由来するのであり、また同時に、メルヘンというものの持つやさしさというのは、我々の「感傷」という経路を通じて、それとおりあいをつけつつある、という点に由来しているのだ、と私は考えている。

ピアノカクテル、ハツカネズミ、太陽の光線、蛇口から覗く鰻、あるいは心臓抜き、そしてクロエの病気など、これら現実にはありえない物事の数々は、決して「非論理的」ではない。それらは確かに「架空」ではあるが、作者が間違いなく組み立てた「論理的」な表象の数々である。

この作品について僕が感動したのは、ストーリーの点から言えば、主人公のコランがその愛する妻クロエの病気の進行とともに落ちぶれていき、やがてコランの努力もむなしくクロエが死んでしまった、ということについてである。そして、この作品特有の構造から言えば、そのストーリーがメルヘンの上で行われた、ということについてである。上の引用をなぞれば、コランの破滅がメルヘンの性質である「孤立感」によって強調され、さらに「我々の『感傷』という経路を通じて」深い共感を呼び起こした、ということになるだろう。

SFについて

僕が初めこの小説をSFであると言ってしまったことについて、今にしてみればやっぱりそれは違うよな、と思うのであるが、それでもやっぱりSFっぽさを一読したあとには感じたわけで、特にSF的なシーンをいくつか挙げてみる。

  • 通し番号(?)44のシーン。クロエの病気を治すために金がいるニコラは職にありつくため、事務所のような場所で面接をしている。一見して分かるのは、ニコラと「長官」及び「次官」との会話のかみ合わなさ、そしてその会話の理不尽さである。これにはコント的な感触もあって、結構おもしろい。筒井康隆ってこういうシーンが多かったような気がする。
  • 48のシーン。ニコラの友人シックは工場(アトリエとルビが振ってある)で技師として働いているが、機械が故障し、そのことを詰られたシックは「もううんざり」してしまって技師の仕事をクビになる。この工場の機械は生きた人間を奴隷的に鉄輪で結んでおり、まさにその人間の肉によって動くようになっている。機械が故障すると結ばれていた4人の人間の手首が切断され、死んでしまっていた、というのはなかなか恐怖的だし、続くシックが部長に報告するシーンで次々にたらい回しにされるのも合わせて、労働というものの不条理さというまた別のテーマを伝えている。で、これは、なんだろう。でもなんかのSFででてきてもおかしくないんじゃないかな。

2つ出してみたが、そんなにSFじゃなかったかもしれない。まあいい。

SFとはなんだろうか。メルヘンが「架空の論理」であることと対比させてみれば、SFは「過剰な論理」だろう。現実に存在するものに対して、こうなったら面白いだろうなとか、ああなったら怖いなという想像が発展したものである。メルヘンが孤立しているとすればSFは危ういのであり、その危うさはどこまでも突き進んでいこうとする過剰な想像に対する不安に由来する。などと上の引用をなぞろうとしてみたが、どうも無理っぽい。

しかし、それでもメルヘンとSFには似ているところがあって、それは現実との距離の取り方だ。どちらも現実ではいられない構造として運命づけられており、ただその現実の論理に対してそれを変容させてみたか、あるいは発展させてみたか、という違いがある。だから、その気になればメルヘンにSF的叙情性を探し当てることも、逆にSFにメルヘン的叙情性を見出すことも可能かもしれないし、僕が「うたかたの日々」をSFと言ってしまったことも、あながち誤りではないだろう。(樹下)


う〜ん。結構適当な文章になってしまった。